徳寿宮の歴史と王宮への変遷🏛️📜

ソウル中心部・市庁前に佇む「徳寿宮(덕수궁/トクスグン)」。
観光地として有名ですが、実はもともと王宮ではなかったということをご存じでしょうか?
徳寿宮は朝鮮王朝第9代・成宗(ソンジョン)の兄である月山大君(ウォルサンデグン)の邸宅として使われていた場所でした。
しかし、1592年の壬辰倭乱(文禄・慶長の役) によって王宮*①が全焼したため、翌1593年から仮の王宮=行宮として利用されるようになります。
壬辰倭乱の際、14代王・宣祖(ソンジョ)が一時的に都(=漢陽:現在のソウル)を離れ義州*②へ避難したのち、再び漢陽へ戻った際にここを居所として選んだことから、徳寿宮の歴史は大きく動き出します。
その後、宣祖の跡を継いだ光海君(クァンヘグン)は、行宮であったこの地で1608年に即位し、1611年には宮殿名を 「慶運宮(キョンウングン)」 と改称。
以降7年間は正式な王宮として使用されました。
しかし、1615年に昌徳宮へ移ったため、以後およそ270年間は離宮として利用されることになります。
*①朝鮮王朝の“正宮(メイン王宮)”は 景福宮(キョンボックン)
壬辰倭乱の際、日本軍が漢陽に侵入すると景福宮は真っ先に焼失し、王宮としての機能を完全に失いました。
戦後すぐには再建されず、王族は昌徳宮(チャンドックン)を中心に生活するようになります。
このため、戦後は昌徳宮が“実質的な正宮”に。
*②義州(ウィジュ/의주)・・・現在の北朝鮮。中国との国境近くに位置する。
高宗と徳寿宮 ― 近代の激動と皇帝の悲運
19世紀末、時代は再び徳寿宮に大きく注目します。
朝鮮王朝第26代王であり、大韓帝国初代皇帝でもある高宗(コジョン)は、1896年から約1年間ロシア公館へ避難生活を送りました。
翌年に王宮へ戻った際、その王宮として選ばれたのがここでした。
高宗の帰還後、宮殿名は再び「慶運宮」と呼ばれるようになり、規模もさらに拡大されます。
その後、高宗が純宗(←廟号)へ譲位したのちもこの地に留まり続けたことから、長寿を願う意味で 「徳寿宮(덕수궁/トクスグン)」 という名称に改められました。
徳寿宮と3・1独立運動
1919年1月22日、徳寿宮の咸寧殿(ハムニョンジョン)にて高宗が崩御。
人々の間では「日帝に毒殺された」という噂が急速に広まり、その葬儀直前に発生した 3・1独立運動 の直接の引き金になったと伝えられています。
徳寿宮はただの宮殿ではなく、朝鮮後期から大韓帝国にかけての激動と悲劇を象徴する場所でもあるのです。

(次回!徳寿宮の見どころ等ご紹介いたします👍)
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